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塩業の歴史と文化 |
台湾の塩業の歴史は、明朝清朝時代、日本統治時代、戦後の台湾の三段階に分けることが出来ます。その流れは、民需から工業原料へと移り、今日の観光レジャー産業やバイオテクノロジーの研究開発へと重心を移動させています。沿海住民の生活は天日製塩産業の発展と衰退に多大な影響を受けてきました。特に雲林、嘉義、台南地方には数多くの塩業にまつわる景色や遺跡が残っており、台湾塩業の歴史の生き証人となっています。
1665年明清朝の時代に、陳永華はそれまでの海水煮沸による製塩方式から天日製塩方式に切り替えを行い、台湾での天日製塩の歴史の幕開けとなりました。明の鄭氏時代には塩田の税金を徴収するのみで、人々は自由に塩を生産、運搬、販売することが出来ました。その後、清朝の時代になると専売制度が徐々に導入され、それまで不安定だった塩の値段や、非合法な密塩が蔓延るなどの問題を一掃できるようになりました。
日本統治時代には、日本は台湾を塩の主要生産地に定め、大規模な塩田を作りました。そして、日本が侵略戦争を発動すると、大量の工業塩の需要を賄うため、工業用の塩灘を切り開きました。当時の年間の生産量は40万トンにも及びました。
戦後になると、1952年に「台湾製塩総工場」を設立し、公営事業として台湾でのすべての塩の需要を賄うようになりました。60年代以降、工業の発展と共に工業塩も大量に生産されるようになりました。70年代から80年代に掛けて、塩村の労働力の流失、人的コストの膨張、海岸線の移動の塩田への影響などの理由から、人口天日製塩にかわり機械による製塩が始まりました。 現在、国内の工業塩の多くはオーストラリアからの輸入塩に頼っています。また、台湾製塩七股塩場が2002年に製塩を停止し、観光産業として生まれ変わったことにより、台湾の塩業は完全に過去のものとなりました。現在はかつての塩業文化を懐かしむだけとなっています。 |
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